平成23年 3月25日
“くまぞう”の 高校時代の同級生で、部活動(ラグビー)のチームメイトの “I 君” が、死去しました。 享年47歳。
突然の訃報に接し、47歳という若さで先に旅立っていくことに、驚きと寂しさを禁じ得ませんが、どうかご遺族の皆様もお気持ちを強く持って、ご自愛下さい。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。
「親死に。 子死に。 孫死に。」
3/27(日)、そのお通夜に参列した際、儀の最後に"
御僧侶"が 彼のご両親、弔問者の前で、このお言葉を説法なされました。
あまりにも意味深いお言葉だったので、直ぐにHPで検索してみました所、別の御僧侶のものですが同じ意味合いのサイトを見つけましたので引用(抜粋)し、書き留めさせていただきました・・。
これは “
一休さん”でお馴染みの【
一休宗純禅師】の言葉で・・、
一休禅師は、ある時 信者の一人から、 「和尚さま、家の宝にしたいと思いますので、何か “めでたい言葉” を書いてくださいませんでしょうか」と頼まれました。 「喜んで書きましょう」と気軽に引き受けた一休さん、さらさらと、『親死 子死 孫死』と達筆に書いて渡しました。 それを見た信者は、かんかんに怒って、 「私は、何かめでたい言葉と言ってお願いしたのに、死・死・死とは何事ですか」と怒りをぶちまけ、まさにその紙をやぶり捨てようとした時、一休禅師は静かに、 「ほほう、それでは何か、お前のところでは、『孫死 子死 親死』の方が めでたいのかな・・」 と言ったということです。
順番どおりに死ぬということは当然のようで、とても難しいことのようです。 私も多くの葬儀を勤めますが なかなか順番どおりにはいかないようです。 私は一休禅師が本当に言いたかったことは、順番どおりに死ななかった家族が一概に不幸とは限らない。 ただ順番どおりということは、それぞれが長生きをして仏より頂いた命を、まっとうしたということだからめでたいのだと言いたかったと思います。
そして「死」が不幸の象徴と思いこんでいる信者に「喝」を入れたのだと思います。 諸行無常の言葉どおり、生まれたものは必ずいつか死ぬ。 この事実を不幸なことと決めつけず、この世に生まれてきた以上、必ず死を迎える時が来るのだと言いたかったのでしょう・・・。
(
法徳寺副住職 伊東知幸 ⇒)
彼とは ここ何年も顔を合わすこともなかったのですが、年賀状のやりとりはしっかりありました。 …が、今年は彼からの年賀状が届かず、どうしたのかな~、と思っていた年初め。そして、この訃報でした。 突然の知らせながら、彼を除く 7名のラグビー部のチームメイトの内、5名が 通夜の儀に集まりました。 久しぶりの集まりが、まさかこんな形でとは・・。
"
御僧侶"が言われました・・、「
親より先に死ぬことより 親不孝なことはない。 何事も順番が大切なのです。 あたり前に生きることのありがたさを再確認し、家族の大切さを感じる・・。 そんな時にしてください。」 ・・・
南無阿弥陀仏 (合掌)
[ 上写真: 二代古青 作 /曼荼羅図・大皿(75cm) ]